”信じる”をはじめる

何かを信じる人は強い。

信じる者は不安を払いのけ、勇気を発揮し

目指す道を力強く歩み続けることができます。


自分を信じることができるのなら、それでいい。

でも、多くの人がすぐに自分を信じられる訳ではありません。

周りを見渡せば、自信なんてなくたって、強く生きている人はたくさんいます。

そんな人の多くは、心に何らかの信念を持っています。


信念は、強く何かを信じていることから生まれるもの。

私は大丈夫だという安心感を得られるもの。

そこには”信じられる何か”をもっていることが必要になります。


そう考えていくと、自信というものは多くの人が求めるものでありながら

実はそれほど必要なことではないように思うのです。

”信じる”という心のスタンス。

それ自体が必要なのではないではないでしょうか。

”信じる”という状態それ自体が、強さを生んでいます。

信じる精神状態によって、強く前へ進む勇気を得ることができるのです。


信じることを、はじめよう。

生きている時間を精一杯、充実させるために。


信じるものを持つ

今すでにうまく生きている。

今すでになんの問題もない。

そう言う人は、そもそもあえて信じるものをもつ必要はないのかもしれません。


そうではなく

今なんらかの心の支えが欲しい。

いつか自分を信じられる人間になりたい。

とにかくもっと強い人になりたい。

そうした場合に、信じるものを持つことは、一つの手段になるのだと思うのです。


信じているものを持っている人は

たとえ周りの反対や非難にあっても、それほど動揺しないで済みます。

信じているものを持っている人は

信じていることの力によって、安心をすることができます。

信じているものを持っている人は

少なからず日々の迷いが軽減します。


そうした信じることによる心理的な効果を利用して

人を騙したり、人を操作したりする人がいるのも事実です。

そうしたことを避けるためにも、信じるということを、一度考えてみることはとても大切なことだといえます。

もの凄くアタマのいい人だってさえ、弱みに付け込まれたり、それまで信じるものがなかったが故に、誤った道に引きずり込まれることだってあるのが現実です。

バランスの良い知識と、バランスのとれた判断力によって

信じること、信じるものを持つことについて、じっくり考えていくことをおすすめします。



神ポジのスタンス

信じる対象を決めること。

それが一番初めに決めること。


何を信じていくのかがいいでしょうか。

科学や法則を信じる、自分を信じる、信頼できる誰かを信じる

どれも良い方法かもしれません。

害なく信じることができるのなら、ある程度なんだっていいと思うのです。

多くの人の身近にあり、はじめやすいものはなんだろうかと考えたとき

神様を信じてみるというのはどうだろうか、と思い立ちました。

もちろん、宗教などに入ることは一切なしにして。

特に何の宗教にも入っていない普通のおばあちゃん、おじいちゃんが

神様をつかって子供をしつけるような感覚ではじめてみよう、と。


なぜ神様なのか?

はじめやすく、やめやすい。

勉強の必要もない。

そして、神様というものが自分より大きな存在だから。


自分よりも大きな存在を心に持つことは

心を支え安定をもたらしやすく、信じる対象として始めやすい。

ちっぽけなアリんこを心に抱くより、大きな宇宙とか神様とかを抱いた方が

心に壮大な感覚が広がるから。


だけど、「神様を信じる??怪しすぎるw」と思うのが普通です。

現代において”神様を信じる”なんていうと怪しさ満点でたまりません。

私だったら、ドン引きします。

だからここで注意点をはっきりさせておきます。


1.今から始めることは宗教ではない。

教祖をもたず、入信(入会)も一切せず、個人が個人的にひっそりと何かを信じる。ただそれだけのスタンスをとる。これを言い換えるのなら、個人的な信念、個人的な人生哲学、心がけを持つようなもの。したがって、多額のお金を徴収したり、定期的に集まったりするような団体には一切近寄らない立場をとる。


2. どんな教えにも偏らない。

ある一つの神様だけを信じるようなことは推奨しない。いきなり一つの神様を信じすぎることは、他の人(他の何かを信じる人)を否定する意識を芽生えさせ、また暴走する要因でもあるから。広く、おおまかに、信じる。大概の怪しい宗教は、”私(or神様)は絶対だ。私だけを信じなさい”みたいなことを言う。だから危険を回避するため、神ポジではそういう信じ方を全面的に否定する。

「”絶対”とか言い出したら、暴走してるね」と全速力で逃げよう。

限定せず、絞りすぎず、穏やかに信じる。今まで何かを信じたことが無い人が、いきなり一つのことだけを信じてしまうのは、妄信につながりかねない。信じることは、妄信ではない。一つのものしか見えなくなるようでは、人生の可能性を狭めてしまう。信じたものが正しいとか、間違っているとか、そういう信じ方は避けよう。


3. あくまで理性は失わない。

いつでも理性にしたがうようにする。理性的に考えてみて、それは間違っていると思えるのなら、その判断に従う。理性を失うような信じ方はしない。理性的におかしいと思うにも関わらず、信じるようなことはやめよう。何かを信じた結果、人を傷つけたり、ぶっとんだ格好をしたり、多額のお金を支払ったりというのは、理性がきちんとはたらいていれば、防げることだから。誰か(有名人、成功者、一見すると良いことばかりを言う人、etc)が言うから信じるということは一切やめ、自分で理性的に判断して、信じられるのなら、信じる。そういうスタンスで少しづつ、信じていこう。


4. 信じるけど、信じすぎない。

宗教が怪しいと感じてしまう要素の一つに、”信じ過ぎ”というのがある。信じ過ぎてしまった結果、お金を払ったり、奇抜な行動や、勧誘をしたりする。「◯◯を信じれば、あなたもやるといいよ。」なんて人に勧めるのは少し信じ過ぎている。あくまで個人的に、現実に悪い影響を及ばさない程度に、ゆるやかに信じてみる。どこまでも個人的に、信じる心を育てる練習として行う。


こうしたルールを意識しておけば、日常生活を逸脱することなく、怪しい道に進む事無く、信じることをはじめてみるのも良いのではないでしょうか。こうしたスタンスを失わなければ、神様を心に持つ事は、心に広がりを持たせつつ、害をもたらさないものではないかと思うのです。